模倣、とは常に、私にとって最も重要なテーマである。
始まりは、憧れ。
憧れは、私の中のあなたを崇拝する行為である。
動的平衡(必ず絶えず変化し続ける)なこの世界の中で、私の中のあなただけはあの頃からずーっと変わらないまま。そのあなたみたいに、私はなりたいの!
本物のあなたとは別物の、私が勝手に生み出したあなたのような存在を真似ることは、模倣なのか。
または、劣等感。
私よりずっと評価されてるあなたみたいになれない事の劣等感は、ずっと私に付きまとう。あなたみたいに正しく、優しく生きられたらどれほど良かっただろうか、って皆に思うの。
でもあなたがたを真似て行動してみても、全然上手くいかない、むしろ私だけワンテンポ遅れてて、皆みたいに上手く生きられない気がする。
模倣は必ず、本物よりも遅れていること。初めにそれをやりだしたヤツ以外は全員二番煎じに過ぎないこと。
てなると、
私は所詮社会のコピーに過ぎないんじゃないかという問いが生まれる。(これは、もっと逃れられない、必然的な模倣の話。)
アイデンティティの形成が後天的に行われるのであれば、私が今持ちうる全ては父母、祖父母、学校教育や社会規範そのものと言えるのではないか。それは模倣を通り越した、もっと根源的でどうしようもない模倣。それこそ、動的平衡のような話。
インプットしないとアウトプットもないのなら、私自身は常に何かの模倣をしながら生きているのかもしれない。
最後に、循環。
そして私も社会になっていく。新しく生まれる子供らを形成させる社会の一部になる。私が一員となっている社会を、彼らは模倣する
(彼らは決して模倣しきることはできないのだ。なぜなら、模倣とは、「私が勝手に生み出したあなたのような存在を真似ること」であるから)。
私たちは所詮誰かの模倣に過ぎないこと。
また、私たちを模倣することは決して誰にもできないこと。
これは、私がこれまで感じてきた劣等感疎外感、罪悪感無力感を救うことができる、唯一の言葉たちである。
(まあ要はラカンの鏡像段階と同じような話。
もっと要すると、あなたみたいになりたかった!というだけの話。)