2022年8月25日木曜日

『書かれた顔』を観てきた蓮です📽


皆さんご機嫌よう、蓮です🌞


なんかこの写真、まるで誰かに撮ってもらったようでしょ?エッチでしょ💗?


でも違うの、鏡の前で自撮りなの。

ぶらり一人旅してるとアルバムはこんな写真だらけになってしまう🌊


セルフポートレート📸はオナニーと似てて自分を見つめ直して、愛してあげる時間だから、嫌いじゃないの💋


ま、それはいいとして!


火曜日の13:00、最終日に滑り込みでダニエル・シュミットの『書かれた顔 (1996)』を観てきました。


主役は、女形 五代目坂東玉三郎。

シュミットによるとこれはドキュメンタリーではなくフィクション映画ならしい…


で、せっかくなので今日はその所感をここで書いてみようと思います‼️

いつも長いのに今日はもっと長いです‼️すいません🙇‍♀️💦


読む時間がない人のために今ここでヌルッとまとめると、こんな感じ。


「女形とはあくまで形であり、女ではない。


なーんてことないでしょう!

てか女形こそ、女そのものじゃないか!」


ではでは。レッツラゴー🎶


1. 女、「女ではないもの」、オンナ


女形はあくまで形であり、女ではない。


なんて思ったりしたとする。


でも、そもそも女ってなんなんだ?

デタラメだし、みんな違うし、定義があるようでないし、うーんじゃあ、おちんちんが付いてないヒトの総称?

最近ではそうシンプルに生物学的に存在を捉えることも許されなくなってきている。


女である私がオンナを定義できないってのは皮肉なようで実はそうでもない。

じゃ、オンナは一体何かといったら「女ではないもの」以外のもの。

だからオンナは「女でないもの」なしには存在し得ない、気がする。


この世の沢山のものは欠如(negation)によって存在するから、子がいないと親になれないように、女も女じゃないもんがなきゃオンナにならない。


それじゃあ「女ではないもの」ってなんだ?ってなると1番手っ取り早いのが男だろうね。


玉三郎も、自分は、男として物を見て、男として女を捉えて、オンナを演じているらしい。


杉村春子が映画中に、男がやる女形のが面白くて綺麗で女っぽい的なことを言ってたな。


でこんなふうに男女二元論になると、勘違いフェミニズムが起きてしまうけど


男なんてのは「女でないもの」を便宜的に一任してるだけであって

「女でないもの」は世に氾濫してると思う


例えば少女達は女になりたがるでしょう?

自分や自分の母親にはないオンナの像をなんとか自分のものにしようと成長するでしょう?

この時の少女達はオンナを追いかける「女ではないもの」ではないか!


私は所謂銀座で働く女だけど、銀座のオンナというものだって銀座の女じゃないもの達が作り上げた幻想的な像な気がしてくる。

それに加担している私とて、銀座のオンナとはこういうものっていうアイデアを信じて銀座のオンナを必死に自分の中に捉えようとしている時点で、既に銀座の「女ではないもの」なんじゃないか。


John BergerWays of Seeing(1972)にあるMale Gaze (男の目線)についての一説を思い出した。


要はこんな感じ。


男は女を見る。

女は男に見られているオンナ(自分)を見る。


まあ、またしても男と女の格差みたいに聞こえてしまうかもしれないけれど。


つまり、女は「女ではないもの」の視点を通してオンナたる自覚をする。


例えば西洋の裸婦の絵画もそうかも。


あの裸婦達だって女性ではあるが、彼女達がオンナになったのは、絵に描かれるという行為を介したから。画家に見られている、描かれているという意識が、彼女たちをオンナにしたんじゃないのかな


彼女達のしなやかなボディラインだったり

ちょっとだらしないお腹だったり

定まらない視線だったり


それらをオンナらしさとするのは女ではなく、女じゃないものの視線ではないかな?


「女ではないもの」によって描かれて初めて、

「女ではないもの」の視点を介して初めて、


つまり時には男であったり、圧倒的な他者であったり、昔の、或いは、現在の女の自分自身であったり、そんな中にある「女ではないもの」ゆえに、オンナが存在し得るのではないか。


知らんけど。


2. 「女ではないもの」という客観性


また勘違いされないように言っておくけど、何も男の目線が客観性ってわけじゃない。


つまり、何も女が客観性を持ってないってわけでもない。


むしろ女は「女ではないもの」の視点で自分を常に見ているからそれはそれは客観的なんじゃないかしら


ものすごい緻密に客観性が働いてるからこそ、私たちはオンナなんだよねきっと。下手したら、というか多分時には男だってオンナなんじゃないの?


玉三郎が言ってたヨ、

武原はんとか杉村春子は女の自分に対して凄まじい客観性を持っているって。


それは広すぎる肩幅だったり

容姿が美しくないことだったり


共通して言えるのは彼女達は猛烈に「女ではないもの」の目線でオンナを認知していた、と同時にオンナになり得ない自分()のエ レメントを認知していた。


だから彼女達が作り出すオンナはめちゃめちゃにオンナなんだ!


玉さま曰く、彼女達は生まれながらに持っている女という材料を一旦端に置いて、オンナという像を組み立てていって、そして端に置いておいた女の材料をまたなんとか使って、オンナになる、と。


客観性って面白くて

客観的であればあるほど存在に近づく気がする


覚めれば覚めるほど、見える

薄まれば薄まるほど、ある/いる


「女ではないもの」であればあるほど、オンナになる、そして女になる


偉そうに言ってるけど、私なんて普段は

私は女だ!っていう主観が先行しちゃってるから、男の言うことにいちいち腹立てたり、自分のジェンダーアイデンティティと子宮と卵巣を持って生まれた身体と止めどない肉欲に、終日途方に暮れたりして実はぐらぐらしてる


客観性は舞踏にとっても大事です。


自分が普段持っている動きやリズムに客観性がないとマンネリになってしまう。


あと1ミリの呼吸によってどれだけ宇宙が、空間が、存在が、拡がるのでしょうか?


でもこの話は長くなるからまた後日。



3. 女形とは女そのもの


元々文才もないし、言葉が苦手なのにこんな文章書いてると正直疲弊しますな。

自分の理解のために使い分けた女とオンナもちょっと曖昧になってきちゃった。


けどめげない負けない、これが最終章。


そ、だから


女形って、男がやるもんってだけじゃなくて、まァたまたま歌舞伎の世界では男がやるようになってしまったけれど、


つまりは「女ではないもの」という客観性によってのみ捉えることができるオンナっていうエッセンスを更にめちゃめちゃにこれでもかってくらい濃縮凝縮して舞台の上で作り出す輪郭な気がします。


それってもうオンナの中でやっとこさ具現化した女じゃないの?


形に落としたのではなく、落ちてしまったというか。

必然的に、エッセンス故に、法や形に納まったというか。

もうそれ以外にはなり得ないものなのではないでしょうか?

だから女形こそ女なんじゃないでしょうか?


と、私は思うのです。



で、最後に。


ダニエル・シュミットがこの作品をフィクションって言ったのもすごい面白いなって。


「坂東玉三郎」っていうのはフィクションキャラクターだって言ったの。


つまり彼も作り物なんだよ、っていう

作り物という形なんだ、だから

この映画も形なんだよ、輪郭なんだよ


エッセンスを捉えるためのフィクション

っていう、客観性!? 


わ、分かんないけど。

書いてて思いました。



で、本当に最後に。

大野一雄の踊りのまァ素敵なこと。


彼は2010年に亡くなっているけれど、

でも私は彼にまた会うことができた。


彼の踊りは、またしても、たしかに、2022823日の午後に、私の目の前で踊られた。


しかも別にだからすごい!とかだから泣いてしまう!とかではなくて(めちゃくちゃすごいことだし私はちょいと泣いたんだけど)


当然の姿というか

そうね、エッセンスを伴った実態というか

着実に忠実に誠実な生命。そのもの。



はい、以上!

じゃ、またね👋

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